「諸葛の大名宇宙に垂れ 宗臣の遺像肅として清高
三分割據籌策を紆(めぐ)らせ 萬古雲霄一羽毛
伯仲之間に伊呂を見る 指揮若し定まらば蕭曹を失せん
福移りて漢祚恢復し難し 志決するも身は殲ぶ軍務の勞に」
―― 杜甫の七言絶句「詠懐其五」
「滔々と流れる長江の水は東へと去り、波は英雄たちさえ洗い流す」。三国時代の歴史が人々に愛され続けるのは、その英雄たちの永遠の魅力によるものでしょう。乱世の中、軍閥が互いに戦いを繰り広げる一方で、数多くの英雄が次々と現れました。曹操、劉備、孫権はそれぞれの地で勢力を拡大し、指導者として名を馳せました。彼らの周りには、荀彧、荀攸、郭嘉、周瑜、魯粛、陸遜、諸葛亮、龐統といった優れた戦略家たちが集まり、戦略を練り、重要な決断を下しました。三国時代の広大な星空の中で、諸葛亮は間違いなく最も輝かしい星の一つでした。
「諸葛亮は自ら畑を耕し、『梁父吟』を好んで歌った。身長は八尺あり、常に自分を管仲や楽毅に例えていたが、当時の人々はそれを認めなかった。」
――陳寿『三国志・諸葛亮伝』
諸葛亮の才能は、古くから人々の議論の焦点となってきました。彼が若い頃、「自分を管仲、楽毅に例えていた」ことが当時大きな反響を呼び、「当時の人々はそれを認めなかった」ことが議論の始まりとなりました。しかし、この議論が今日まで1800年も続いたことは、誰にも予想できなかったでしょう。諸葛亮が隆中を出発した時、彼が果たして「管仲や楽毅に例えられる」ほどの能力を発揮できるのか、人々は注目しました。やがて、諸葛亮は自分が決して誇大妄想ではないことを証明しました。あまり期待されていなかった劉備は、彼の補佐のもと、まず孫権と手を組んで強大な曹操を打ち破り、その後江南の四郡を占領しました。さらに益州を西に取り、漢中を北に安定させ、最終的に曹操、孫権と天下を三分することになりました。この時点で、諸葛亮が真に稀代の天才であることを認めざるを得なかったのです。