諸葛亮評(四)

 人材については、いくつかの分類法があります。古代では一般的に人材を「士」と総称し、才能の高低によってその「士」を九品に分けました。全体は上、中、下の三品に分けられ、上・中・下それぞれがさらに三品に細分されました。このような分類によれば、諸葛亮は「上上の士」となります。

 三国の謀士たちを見渡してみますと、「上上の士」と呼ばれるにふさわしい者は多くないのです。曹魏には荀彧、荀攸、賈詡、鐘繇、郭嘉、程昱、劉晔、司馬懿がいるのです。孫呉には周瑜、魯粛、陸遜がいるのです。蜀漢には諸葛亮、龐統、法正がいるのです。また、袁紹の部下の田豊、沮授、劉表の部下の蒯越もいるのです。これらの「上上の士」の中で、諸葛亮と肩を並べる者は幾人いるでしょうか?

 「士」はまた、地域によっても分類され、「郷士」、「県士」、「州士」、「国士」と呼ばれたのです。たとえば、姜維は鐘会に「涼州上士」と称され、韓信はかつて蕭何に「国士無双」と称されたのです。いわゆる国士とは、全国規模で唯一無二の「士」のことです。三国時代において「国士」と称されることができたのは三人なのです。一人は曹魏の荀彧、もう一人は孫呉の陸遜、そしてもう一人はもちろん諸葛亮です。つまり、当時、荀彧は全国でただ一人、陸遜はただ一人、諸葛亮もただ一人であったということです。他の者はそうではないのです。現代において広く尊崇されている郭嘉を例にとっても、程昱、劉晔は彼に劣らず、ましてや荀攸、賈詡はなおさらです。諸葛亮は、当時全国でただ一人であったのみならず、その後数百年にわたっても彼に匹敵する者は現れず、彼は世に稀なる奇才です。

 治的才能に関してだけを見ると、古代には「百里の才」、「千里の才」、「経天緯地の才」という説があったのです。

「百里の才」とは何か?
それは、一県の政務を治め、一県の長としての職務を全うできる才です。
「百里の才」に関しては、劉備にまつわる二つの小話があるのです。
劉備が荊州を得たとき、劉備は庞統を耒陽県令に任じたのです。ところが庞統は非常に不機嫌になり、県内で政務を行わなかったのです。これに対し、東呉の魯粛は劉備に手紙を書き、「庞士元は『百里の才』ではない。治中や別駕の職に就かせることで、初めてその優れた才能を発揮できるであろう」と申し上げたのです。そこで劉備は庞統を軍師中郎将として用いたのです。

 その後、劉備が益州を得た際、また蒋琬を広都長として用いましたが、蒋琬はあらゆる事柄に無頓着で、日々酒を呼び買って酔っぱらっていたのです。これに激怒した劉備は、蒋琬に罰を加えようとしたのです。しかし、諸葛亮が懇願して、「蒋琬は社稷の器であって、百里の才ではない。その政治は民の安寧を本とし、見かけの飾り立てを第一とはしていない。どうか主公よ、改めてその資質を見極めてくだされ」と申したため、劉備は諸葛亮を敬重して罰を加えなかったのです。その後、蒋琬は尚書郎として用いられたのです。
 この二つの例から、百里の才と社稷の器とは大きな隔たりがあることが明らかです。
百里の才があれば、当然千里の才もあるべきです。

 では「千里の才」とは何か?
 それは、一方の刺史や郡守として十分にその職務を果たせる才です。
諸葛亮が隆中に隠遁していた際、頴川の石広元、徐元直、汝南の孟公威と親交を深め、かつ彼らに対して「諸君の仕官は進むにつれ、刺史や郡守にまで至るであろう」と語ったのです。すなわち、石、徐、孟の三人は千里の才です。
 その後、三人が彼の志向を問うと、諸葛亮はただ微笑み、明言はしなかったのです。しかし、事実は明らかであり、諸葛亮の才能は石、徐、孟の三人をはるかに上回っていたのです。彼こそが伝説と謳われる「経天緯地の大才です」

 「経天緯地」とは何か?
 それは、治世において国を泰平にし民を安んずると同時に、乱世においては天下の諸事を織りなす才です。
想像してみよ。諸葛亮が出山したとき、わずか二十七歳でありながら、茅庐を出る前から既に天下が三分されているという大局を見据えていたのです。そのような大略を抱く者と比べる者はいったい誰でしょうか?

 

2025年02月18日